
出版社:文芸社 著者:大野靖志 定価:1,680円

●プロローグ― 言霊によって現実を変える具体的な方法を初公開 ― どうして日本語は美しいのか? ― 言霊(ことだま)は「単なる迷信」ではない ― 西洋的価値観は私たちを幸せにしたか ― 日本― 新しい文明のパラダイムを提示しうる国 ― いにしえの叡智を今に伝える言霊学と伯家神道 ― 階層性と統合性によって知識を整理する ― 本書の使命とその方法論
伯家神道の秘儀継承者・七沢賢治が明かす神話と最先端科学の世界
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山梨大学名誉教授椙村(すぎむら)憲之
かねてより、ソクラテスの説く「無知の知」を任じてきた私でしたが、今さらながら、これほど「知らない」ということを自覚させられたことはありませんでした。
神道と聞くと、冠婚葬祭や初詣(はつもうで)、はたまたお宮参(みやまい)りなどの儀式くらいしか頭に思い浮かばないのは、一人私だけではないでしょう。私を含めて、多くの日本人の神道に関する知識がこれほど貧弱になってしまったのには訳があります。
明治維新の後、神道国教化政策により、神社神道を皇室神道の下に国家神道として再編成し、宗教性や霊性を除外した儀礼的なものにしてしまったため、今日世(こんにちよ)に知られている神道は、かくも形骸化(けいがいか)されてしまったのです。
しかも、これに追い打ちをかけるように、第二次世界大戦に大敗したわが国へアメリカのマッカーサー元帥(げんすい)率いるGHQ(連合国最高司令官総司令部)が進駐してきた際に、あたかも神道が戦争犯罪者でもあるかのように文献という文献をことごとく焼却してしまったということにもその一因があったのです。かつて日本の同盟国であったドイツの友人たちが、やはり同じように街の角かどで黒煙(こくえん)が昇り、多くの貴重な文献が灰燼(かいじん)に帰してしまったと嘆息混じりに語ってくれたことがありました。
改めて申すまでもなく、戦争とは、人々の生命だけでなく、愛や平和、そしてその国の文化遺産や貴重な知的財産までも破壊し尽くしてしまう、かくも野蛮で極悪非道な残虐行為なのです。それはさておき、明治維新以前の神道、いわゆる古神道(こしんとう)とはどのようなものだったのでしょうか?
古神道とは、仏教や儒教などの影響を受ける以前のわが国固有の神道(しんとう)―いわゆる「惟神(かんながら)」の道―であり、遠く縄文時代から連綿と受け継がれてきた日本古来の霊性開発システムであるといえます。
ここでいう惟神(かんながら)の道とは、人間の霊性を刺激し、自然界に偏在する八百万(やおよろず)の神々のすべてと一体化する修行体系を指します。
また、古神道では、言葉そのものに霊的パワーが宿るとして言霊を重要視し、独自の「言霊行」を伝承してきました。
私がかつて修行した道家(どうけ)気功でも、すべての言葉は陰と陽の二気から成り、人は言葉の意味、すなわち陰を左脳で捉え、言葉の音、すなわち陽を右脳で感知すると解釈し、右脳で感知する言霊を重要視しています。
さて今日、巷で古神道と呼ばれているものには、伯家神道、吉田神道、物部神道、両部(りょうぶ)神道、山蔭(やまかげ)神道などがありますが、中でも伯家神道は、古神道本来の家元そのものともいえるでしょう。まずは伯家神道のご修行について、私の体験からお話しすることにいたします。
伯家神道のご修行は「おみち」とも呼ばれ、明治維新まで800年間もの間、主に口伝(くでん)によって伝わってきました。そのご修行内容や体験は個人によって異なり、知れば知るほど奥が深い「おみち」の全貌を文字にして表記することは恐れ多く、ほとんど不可能に近いことだともいえます。また、私にはその資格もございません。
しかし、「おみち」のご修行の後に、審神(さにわ)していただいた七沢先生からその都度、種々の教えをいただけますことは、私にとりましても最も楽しみな一刻です。
七沢先生の恩師・高濱浩先生は、孝明天皇の信任厚かった伯家神道最後の学頭・高濱清七郎の曾孫(ひまご)にあたります。今日、われわれが七沢先生から直々(じきじき)に授けていただける「おみち」のご修行は、まぎれもなく歴代天皇が真の天皇になるためになさった祭祀そのものです。
私が七沢先生に教わったことで最も印象に残っている言葉は、「神をつかむ、神を食べる」といった高濱浩先生の単純にしてきわめて明快な教えです。また、「おみちは神が修行する」とも申されました。すなわち、伯家神道の「おみち」は、人の体と一体になった神が修行する神人合一の秘儀なのです。
いずれにせよ、少なくとも「おみち」の最中に自分はおりません。神が神代(かみしろ)となったわが身を使ってご修行する神事なのだということをつくづく感じます。
葉っぱがあり、枝があり、根っこがついている創造物を「木」と称し、瓦(かわら)が載り、柱が立ち、壁、床、畳などからなっているものを「家」と呼んでいるように、人間もまた、皮膚や骨や細胞の寄せ集めであって、それらを一つ一つ分解してしまえば、誰が見てももはや人とはいえません。
われわれは、そんな単なる部品の寄せ集めに過ぎない身体を「自分」だ、「私」だ、と勝手に思い込んでいるのであって、あるのは注連縄(しめなわ)のまかれた杉の木と同じように、神、すなわち言霊が存在するだけであり、そこには最初からほかの何ものもいないのです。
山梨県甲府市にある七沢邸の八畳間で執り行われる「おみち」には、伯家神道独特の神拝作法がありますが、どれ一つとってもそこには深い意味があります。
たとえば、切り火ですが、火が古神道の祓いに重要なものであることは、『古事記』にも伺えます。
それを示す箇所を口語体で記しますと、
「伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、腰に帯びていた十拳(とつか)の剣を抜き放ち、心ならずも自分を生んでくれた母である伊邪那美命(いざなみのみこと)の生命を奪ってしまったわが子、火之迦具土神(ほのかぐづちのかみ)の頸(くび)を斬り落としてしまいました。そして命の御刀(みかたな)についた迦具土神の血は飛び散って多くの岩石の群れに付着し、また多くの神を生みました」
となり、一見すると親子殺戮(さつりく)の残虐な描写に見えます。
しかし、心眼(しんがん)を開いてもう一度よく読むと、この場面は切り火による禊の方法を暗示していることが分かります。
また、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が高天原と黄泉(よみ)の国、すなわち天と地に分かれてしまうこの神話は、明らかに宇宙創造を示しており、南部理論にいう「対称性の自発的な破れ」そのものにちがいありません。
その意味で、伊邪那美命(いざなみのみこと)を伊邪那岐命(いざなぎのみこと)から引き離すきっかけを作った火之迦具土神(ほのかぐづちのかみ)は、裏を返せば、われわれ地球生命にとっての恩人(神)だといえるでしょう。
十種神宝御法(とくさのかんだからのごほう)の六種鎮魂の拍手では、荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)、精魂(くわしみたま)の五魂を鎮魂します。
普通、神道においては人の霊魂は一霊四魂と説かれますが、伯家神道でいう鎮魂とは精魂(くわしみたま)を含めた五霊五魂の調整を指します。
さて、世界的に統合失調症が増え続けています。統合失調症はかつて精神分裂病と呼ばれていた精神病の一種ですが、これを最初にSchizophrenie(シゾフレニー=精神分裂病)と命名したスイスの精神医学者オイゲン・ブロイラーらは、この病は、精神すなわち五魂が分裂している障害であることを知っていたのかもしれません。
統合失調症にもいろいろな病型(びょうけい)がありますから一概に決めつけられませんが、五つの魂が分裂している統合失調症においては、五つの魂を統合する精魂(くわしみたま)の働きに問題があるのではないでしょうか。
かつて「憑依精神病」として記載されていたある種の精神病も、今日では統合失調症の範疇(はんちゅう)に入れられています。しかし、これは明らかに五魂の働きに問題があるために、さまざまな霊に憑依されてしまうのだと思われます。
そしていうまでもなく、「おみち」でいう鎮魂は五魂の調整です。さらにいえば、クイント・エッセンスによって言霊を駆使すれば、このような五魂の分裂を調整することは容易です。
これらの事実は、今後の精神医学にも一石を投ずることになるでしょう。
ご修行の段階が進んできて私が感じたことは、わが身の五感に感じる三千世界に深みが増して、それが美しく輝き出したということです。おそらく自分自身の意識の進化によるものでしょう。
かつて私に神道の素晴らしさを説き、七沢先生と私が直接出会うきっかけを作ってくれたインドの聖者カルキ・バガヴァンは、ワンネス・ブレッシング(ディクシャ)という手法を用いて対象者にプラーナという宇宙のエネルギーそのものを伝達していますが、私の体験から大胆な考察を許していただけるならば、エネルギーの強弱や相性の相違はあるものの、これもまたレイキや気功と同じように宇宙に遍満(へんまん)する八百万の神すなわち・サンカルパ・という強い意図を込めた言霊の伝授であろうかと思います。
インドで初めてこのディクシャを体験したときには、まるで水晶の中を歩いているようでしたが、「おみち」を行じる今日では、さらに外界との分離感がなくなり、まさに宇宙と一体のワンネスを実感しております。
はじめに神道の研究を勧めてくれたもう一人の瞑想の師、インドのマハリシ・マヘシ・ヨーギは、「瞑想をする際には、集まってくる小鳥の数を数えなさい」と私におっしゃいました。
また、あの天安門(てんあんもん)事件の最中縁あって中国で出会い、私の帰国後すぐ官憲(かんけん)に追われるように来日して、しばらくわが家に身を寄せていた道家全真教龍門派(どうけぜんしんきょうりょうもんは)第十九代伝人(でんじん)の屠文毅老師(とぶんきろうし)より伝授された龍門気功を実修していた折には、私の身体を木か草と間違えたのでしょうか?アゲハチョウが指先に止まったこともあります。
最近では歩いていても小鳥が逃げなくなりましたし、つい先日もわが家の近くで美しい雄のキジが逃げずに寄ってきました。ご修行が進んで意識が進化すると、身体が自然に同化してしまい、樹木や草と同じようになってしまうのかもしれません。
人間の心身には過去世から現世に至るまで、さまざまな罪・科(とが)・穢れが蓄積されています。仏教用語でいえば煩悩(ぼんのう)ということでしょうか。
この罪・科(とが)・穢れ、そして煩悩はわれわれを苦しめますが、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)のように禊祓いをすれば、それが消滅してゼロの意識状態となり、葛藤や不安、苦しみがなくなります。
「おみち」の一連のお祓いが厳(おごそ)かに進行していくと、意識は大変精妙になり、人によっては美しい気を観じます。私は畳のへりが黄金(こがね)色に輝き、ときに濃さが異なることがあったり、若干他の色が混入することはありますが、おおむね八畳間全体がそれはそれは美しいラベンダー色に染まってきます。
私は気功や瞑想の経験からか、チャクラやオーラの光が見えるようになりました。チャクラとは背骨に沿って存在する七つの大きな経穴(ツボ)のことであり、サンスクリット語で「車輪」を意味するエネルギーの出入り口です。
チャクラには色と形があってオーラとも相関しています。
下からムーラダーラ(会陰(えいん))、スワディスターナ(膀胱(ぼうこう)周辺)、マニプーラ(へそ)、アナハタ(乳首と乳首の真ん中)、ヴィシュッディー(喉(のど))、アジナー(眉間(みけん))、サハスラーラ(頭頂(とうちょう))の各位置にあって、色はそれぞれ赤、橙、黄、緑、青、藍、紫と虹の色、すなわち太陽のスペクトルとなっています。
このことから考えると、われわれ人間は、太陽からそれぞれのチャクラの働きに応じた七つのエネルギーを吸収していることになります。
天皇のご修行の一つに、鏡に映る自分のお姿に拍手を打つ「御鏡御拝(みかがみぎょはい)」という業(わざ)があることを七沢先生からお聞きした際に、ふとこれらのことが脳裏をかすめ、好奇心旺盛な私はさっそく鏡の前で五種の拍手を打ち、天津神、国津神、八百万の神々を順次想念いたしました。すると、それに応じた神々が次々と自分の身体を伝って降臨する体験があったのです。
かつての日本人は天照大御神を太陽神として崇めました。それはつまり、チャクラに分配された天照大御神の分け御霊(みたま)である神々、すなわち言霊を、それぞれのチャクラを通して吸収しているということなのでしょう。
このような体験から、私の心と身体の中でインドのヨーガや瞑想、中国の気功、日本の神道が融合して、やはりすべての道は天に通ずる「おみち」なのだと得心(とくしん)いたしました。
人は心と身体、あるいは霊魂と身体から成ることは今や自明の理です。
ここで、道家の説くように身体は陰、霊魂は陽と考えてみるとき、人間は陰と陽から成る太極(たいきょく)となります。
伯家神道では、ご修行の際にシャーマンのような脱魂(だっこん)をすることは固く禁じられていますが、それは、脱魂とはとりもなおさず陰と陽が分離することであり、陰陽合一して無極へ至る―古神道でいえば高天原に昇り天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)との合一に至る―はずの対称性が破れてしまうことになってしまうからです。
つまり、伯家神道では、あくまでも陰陽の備わった神人合一を目指すのです。
意識のホメオスターシス(恒常性)でもあるその意識状態は、「永遠の中今(なかいま)」ともいえます。意識の中に過去や未来があるのは人間だけです。
過去は単なる記憶であり、未来は不安や希望に満ちた空想に過ぎません。これも、マインドの一部であるエゴが芽生えたことから生じた誤解です。
伯家神道の「おみち」の場合、審神者(さにわ)の前で目を閉じて外結印を結んだそのときから、すでに至福の状態は始まり、徐々に高天原に入って最高潮を迎えます。そしてときには、日常生活に戻っても、その静かな至福意識状態は持続いたします。
ご修行させていただいてつくづく思うことは、かつてTM(超越瞑想)の研究に出向いたはずの私にあえて神道の研究を勧めたインドのマハリシは、・言霊の幸ふ国・日本に生まれた私が高天原という涅槃(ねはん)の境地に至る道は、決して他の道ではなく、伯家神道の「おみち」そのものであることをすでに予見していたのではないかということです。
今さら申すまでもなく、自分はまだまだ「おみち」の途中だと思っておりますが、私があるときまで七沢先生と「おみち」に出会えなかったのには、それなりに深いわけがあったのでしょう。道を探し求めていたかつての私には、きっとその準備さえもできていなかったのかもしれません。
天皇が白川家の祝部(はふり)殿で伝授されていたという「祝(はふり)の神事」がいかようなものであったか、今となっては知る由(よし)もありません。
しかし、語り継がれた事実から推し量ると、審神者(さにわ)、神代(かみしろ)、はふりめ、と呼ばれる者たちがお取り立て(お世話)をして、真ん中に座られた天皇に対し八方から祝詞を奏上したと考えられます。
七沢邸の御神殿でも、審神者の七沢先生と対峙したとき、かつて神代にあったと思われるような「おみち」のご修行が執り行われます。
お祓いのときと同じように切り火をして身を清め、入室した後、高等神事の拍手を打って、目を閉じ外結印を結んで、審神者によるお祓いの言霊を受けます。
しばらくすると神代には、「おはたらき」と称する無為運動が発生し、旋回(せんかい)が生じます。このような旋回をみる神事は世界のさまざまな民族で見られ、たとえば両手を大きく広げて旋回するスーフィーダンス、龍門気功の外丹霊動功(がいたんれいどうこう)などがあります。
このような旋回運動は宇宙のリズムにもかかわるものであり、人体の動きを増幅した結果だといえるでしょう。
この旋回運動に関して、私は一つの仮説を持っています。
インドでは、宇宙に遍満する根源的エネルギーを「プラーナ」といいますが、宇宙のあらゆる存在はこの「プラーナ」から成っており、特に人の体内で覚醒したプラーナを「クンダリニー」と呼びます。
この「クンダリニー」は、らせんやコイルを意味するサンスクリット語の「クンダラ」が語源であり、普段は会陰部(えいんぶ)のチャクラの底に、まるで蛇がとぐろを巻いたような形で眠っているといわれています。
インドでは、この「クンダリニー」が眉間(みけん)まで到達することが悟りの第一段階と考えられていますが、無理矢理に「クンダリニー」を上昇させることには大変な危険が伴うともいわれます。
伯家神道の「おみち」においては、審神者の祝詞、すなわち言霊が神代(かみしろ)の脳波に同調して「クンダリニー」を安全に刺激し、その結果、旋回運動が生じているというのが私の仮説です。
私が修行した龍門気功の外丹霊動功と、この「おみち」が異なるのは、旋回運動の後に神代がお榊(さかき)のような「ひもろぎ」、すなわち天の御柱(みはしら)となり、高天原から神々のご降臨(こうりん)をみることでしょう。
なお、私は気功の修行、すなわち練功(れんこう)の際には、さながら西遊記の孫悟空(そんごくう)のように多くの邪魔に見舞われました。死霊や鬼やジャッカルのように見える存在に襲われそうになったこともあります。
しかし、「おみち」にはそのような危険はまったくありません。
邪神、悪神が出現した場合には必ず審神者である七沢先生が祓ってくれますので、すべてをお任せして安心してご修行が続けられます。これがいわゆる惟神(かんながら)の「おみち」でありましょう。
神代(かみしろ)のおはたらきは、さらに進んでくると、いわば「人間お榊」とでも申しましょうか。まさに天の御柱となり、高天原より神々の降臨をみて、さらに神人合一のご修行が続きます。
かつて、皇太子が天皇になられるために、このようなご修行をなさったことを思うと感慨深いものがあります。私もあるとき、「おみち」のご修行中に、「天皇は天と地をつなぐ真の御柱であり、国を背負った親亀(おやがめ)である」との体感がありました。
本来、天皇は国である地を統(す)べるだけでなく、地震や雷などの天災はもちろんのこと、自ら天をも鎮め、「人家の竈(かまど)から炊煙(すいえん)が立ち上っていないことに気づき、租税を三年間免除し、皇居の屋根の茅(かや)を葺(ふ)き替えしなかった」という仁徳(にんとく)天皇の逸話(いつわ)が物語るように、臣民(しんみん)と国家の安寧(あんねい)を祈ったのです。
これこそまさに、祭政一致の真の「まつりごと」ではないでしょうか。
今日、私は「なぜご修行をするのか?」と問われれば、
「これは本来天皇の役目であったはずですが、七沢先生のおっしゃるように、かつてあった『カミ・キミ・オミ・タミ』の階層が崩れ、はからずも神と民が一体となれるようになった今日、自らが小さな石となり、及ばずながら人々の苦しみや過去からのしがらみを取り除き、自分も含めたこの世のすべての人々を幸せにしたい……どのような小さな争いごともなく、富者(ふしゃ)も貧者(ひんじゃ)もない、明るく光り輝くゴールデン・エイジ、この世の天国、すなわち高天原の実現を目指したいから」
と答えるでしょう。
そのためには、まだまだ己の内側と外側を祓い清めて、わが国の国歌・君が代の歌詞にもあるように、細石(さざれいし)の巌(いわお)となるまで、この小さな石を磨き続けなければならないと考えております。
わが師である七沢賢治先生の思いは改めて伺うまでもなく、まったく同感であろうと思いますが、このことはいくら熱い思いがあったとしても、一個人の業で為しえることではありません。
「決して宗教団体はつくらぬこと」とは、七沢先生の恩師であった高濱浩先生の遺言ですが、かつて和学教授所という白川の門人養成施設があったように、より現代にふさわしい教育システムを構築し、人類の平安のため、心ある人々に対して、神と一体になり高天原の住人になる手法を伝えていくことは、人心の荒廃しきった今こそまさに急務であるといえるでしょう。
クイント・エッセンスの成果でもお分かりのように、言霊は世界の意識を変えることができます。
そのため、明治天皇以来、伯家神道のご修行をしない天皇が100年続くと日本の国体が崩壊するといった喧伝(けんでん)や、マヤの暦が2012年12月21日で終わることなどに脚光を当て、多くの人々がまことしやかに人類滅亡をささやけば、いつしかそれが集合意識となって火種がくすぶり出してしまいます。
巷間囁(こうかんささや)かれている次元上昇、すなわちアセンションは、実は肉体的なことではなく、意識レベルの進化です。
それは人類の集合意識が悟りの意識状態になることだと思われますが、そうなると、当然意識状態が集合意識の進化についていけない人々も出てくるはずです。そのようなことにならないためにも、新しい形の教育システムの実現が望まれます。