出版社:文芸社 著者:大野靖志 定価:1,680円
●プロローグ― 言霊によって現実を変える具体的な方法を初公開 ― どうして日本語は美しいのか? ― 言霊(ことだま)は「単なる迷信」ではない ― 西洋的価値観は私たちを幸せにしたか ― 日本― 新しい文明のパラダイムを提示しうる国 ― いにしえの叡智を今に伝える言霊学と伯家神道 ― 階層性と統合性によって知識を整理する ― 本書の使命とその方法論
伯家神道の秘儀継承者・七沢賢治が明かす神話と最先端科学の世界
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伯家神道の絶大な影響力
幕末、白川伯王家最後の学頭である高濱清七郎(たかはませいしちろう)は孝明(こうめい)天皇の勅命を受け、明治維新前夜の京都を離れた。そのころには白川伯王家は権威の象徴としての存在でしかなく、伯家神道の伝統を実際に継承していたのは学頭であったため、激動の時代において伯家神道の命脈を守ることを目的として京都を離れて身を隠すことを孝明天皇は命じたのだ。これが、1866年の秋のことだったといわれる。
なお、白川伯王家は明治時代に入ると王号を称することを禁じられ、当主の白川資訓(すけくに)は子爵(ししゃく)に叙せられることになった。その後を継いだ資長(すけなが)には実子がなかったため養子を迎えたが、後にその養子縁組は解消されたため、白川家の血筋はここで途絶えてしまう。
さて、四国や九州の山里(やまざと)で身を隠して幕末の動乱を逃れた高濱は、明治に入ってから有志を募って白川の行法の継承を行う「造化参??傳教會」を創る(256〜257ページに発行物を掲載した)。それにより宮中祭祀としての伯家神道は広く一般へその門戸(もんこ)を開くことになった。
「高濱清七郎先生は東京・芝の御田八幡(みたはちまん)神社でも行を教えており、その伝授を受けた人々の子孫やゆかりの方々で作る『高濱神徳会(しんとくかい)』というものがありました。神社には高濱先生の教えが記録されたものなどが残っており、もう30年ぐらい前になりますが、その写真を撮らせていただいたことがあります。また、そのときに高濱先生の教えを受けた高齢の人物にもお話を伺いました」
御田八幡神社に残されていた資料から復刻された高濱清七郎の著書に『沙庭(さにわ)』という歌集がある。高濱は一般の門人に対しては歌を通して教えることが多く、また伝授される行も、残された資料によると教導的なものであったようだ。
一方、そのような一般向けの教えとは別に、伯家神道の奥義(おうぎ)は高濱清七郎の娘婿(むこ)となった宮内忠正(ただまさ)が「和学教授所」を創設、その娘である中村新子(しんこ)へ引き継がれた。その中村新子は伯家神道を継承する門人を数多く育てた。
「そのような経緯を経て伯家神道は民間に知られることになりましたが、一方で皇室とのつながりはなくなりました。明治時代に入って明治天皇から太政(だじょう)大臣の三条実美(さねとみ)に『高濱清七郎を宮中へ呼ぶように』と指示があったようですが、三条実美は高濱先生が亡くなったことにしてそれに応じなかったそうです。
なお、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の流れの中、伯家神道に基づいて全国の神社を再編しようという試みもあったそうです。その一つが、造化三神と天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る神社を全国に造るという計画でした。しかし、高濱先生がいないからそれはできないということになったようです」
高濱清七郎を宮中へ招聘(しょうへい)しなかった理由は分からない。だが、廃仏毀釈の流れが国家神道へつながり、さらに国家神道が後の大戦における戦意高揚(こうよう)につながったことを考えると、おのずと察せられるだろう。
伯家神道は、幕末から明治時代にかけて勃興(ぼっこう)した教派(きょうは)神道(神道系新宗教)各派にも絶大な影響を及ぼしており、たとえば幕末には、後の禊教(みそぎきょう)の教祖である井上正鐡(まさかね)や金光教(こんこうきょう)の教祖となった川手文治郎(かわてぶんじろう)らが入門している。また、高濱清七郎と交流が深く伯家神道の影響を色濃く受けていた本田親徳(ちかあつ)の説く行法が、大本教(おおもときょう)の教祖として絶大なカリスマ性を発揮した出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)の霊性の覚醒に一役買ったこともよく知られている。