
出版社:文芸社 著者:大野靖志 定価:1,680円

●プロローグ― 言霊によって現実を変える具体的な方法を初公開 ― どうして日本語は美しいのか? ― 言霊(ことだま)は「単なる迷信」ではない ― 西洋的価値観は私たちを幸せにしたか ― 日本― 新しい文明のパラダイムを提示しうる国 ― いにしえの叡智を今に伝える言霊学と伯家神道 ― 階層性と統合性によって知識を整理する ― 本書の使命とその方法論
伯家神道の秘儀継承者・七沢賢治が明かす神話と最先端科学の世界
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客観視によるゼロ化への道
意識をゼロ・ポイント・フィールドに持っていくことが重要なのは分かった。では、祓詞の奏上に関してそれなりの指導者のいない場合にはどうすればいいか?
祓いが自分を浄化するものだとすれば、祓いとは違う方法で心身の穢れを浄化する術、すなわち自身の「ゼロ化」はできないのだろうか。
禅や老荘思想をはじめ、一部宗教の世界では、ゼロ、すなわち「無」「空」といわれる世界をその最終目的とした。そのために、さまざまな方法論が編み出され、それにより光明(=意識のゼロ化)を得たという人物が出たのも事実だ。しかし、果たしてどれだけの人々がこの恩恵にあずかることができただろう。
一方、伯家神道では、意識のゼロ化をスタート地点と見る。
つまり、祓いによりゼロの地点に戻ることが、そもそもの前提なのだ。そして、そこから言霊によって新しい世界を創造していくのが、惟神(かむながら)の道と呼ばれる。
考えてみれば、「中今」という概念からも分かるように、人間はもともと、この今という瞬間に生きており、それをゼロの地点とすれば、誰もがこのゼロ・ポイントを通過していることになる。
だが、情報化社会であるため、私たちは多くの情報を詰め込みすぎて、思考や感情のエネルギーによってゼロの地点を見えにくくしている。何しろ、「ゼロ」について考えることすら、「中今」を見失うことにつながるのだから。
そこで、客観視という方法が生きてくる。ある考えが邪魔であればそれを捨てればよい。考えている自分が邪魔であれば、それを客体化して仮想上のゴミ箱に捨てる。そうすることで、「ゼロでないもの」を排除していき、全部取り除けば、最後はゼロしか残らないという寸法だ。
七沢氏が言うように、そもそも祓いには、罪、咎(とが)、祟(たた)り、障(さわ)り、穢れを階層に分けて消すという意味合いがある。だがそのためには、問題を俯瞰(ふかん)できる位置に自分を置く必要があるだろう。その際、階層的にどれほど上の位置から見るかにより、当然、見える景色も異なる。
たとえば、考えそのものの階層、その考えを見るという階層、それを見ている自分を見るという階層……というように、どの階層から観察を行うかで、ゴミ箱に捨てるべき要素の把握も変わってくるだろう。
これはちょうど、パソコンにあるデスクトップの画面にも似ている。あるデータがフォルダに入っているとする。そのデータをそのままドラッグしてゴミ箱に捨てることもできるが、フォルダごと捨てることもできる。しかし、そのフォルダは、また別のフォルダに格納されている下位の一フォルダかもしれない。
ここに階層性という概念がないと、データを格納する最初のフォルダを消去しただけで、ゼロになった気分になってしまう。しかし、階層ごとに存在するフォルダの全容を把握していないと、どこかに隠れていたファイルがいたずらをするかもしれないのだ。
客観視は、これらの階層を客体化し観察することで成立する。では、階層から階層へ客観視をとことん突き詰めていくと、どんな地点に行き着くのか?
実は、最後の最後は客観できなくなるのである。つまり、主体があり客体があって初めて客観視が可能になるのであって、客体、すなわち見られるものがないと客観視は不可能となる。
自分の足から順番に体を見ていってほしい。腹部、腕、胸……そこまではいい。鼻も見えるかもしれない。しかし、自分の眼で自分の眼を見ることはできない。
同じように主体が客体を見ることはできても、主体が主体を見ることはできない。ゼロをつかむとは、自分の眼で自分の眼を見ることに等しい。つまり、見るのは不可能ということだ。だが、見えないからといって、それがないわけではない。そう、見えなくても確実に「ある」のである。
それを最終観察者といってもいいだろう。言挙(ことあ)げできない存在がそこにある。これに関して七沢氏はこう説明する。
「皆さん究極の存在として神様の名前を欲しがりますが、名前をつけるとそこに新たな破れが生じます」
つまり、観察されるもの、名付けられるものが何もなくなって初めてゼロと一体化できるのだ。
もちろん、これでは「意識を無に持っていくにはどうすればいいか」という問いへの回答にはならない。いかにそれが難しいかを説明しただけだ。ただ、階層性という考え方はご理解いただけたことと思う。