
出版社:文芸社 著者:大野靖志 定価:1,680円

●プロローグ― 言霊によって現実を変える具体的な方法を初公開 ― どうして日本語は美しいのか? ― 言霊(ことだま)は「単なる迷信」ではない ― 西洋的価値観は私たちを幸せにしたか ― 日本― 新しい文明のパラダイムを提示しうる国 ― いにしえの叡智を今に伝える言霊学と伯家神道 ― 階層性と統合性によって知識を整理する ― 本書の使命とその方法論
伯家神道の秘儀継承者・七沢賢治が明かす神話と最先端科学の世界
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祓詞で言霊は本来の力を取り戻す
本章の冒頭で紹介した彼らの提唱していることは、まさに言霊の実践にほかならない。
そして、彼らと同様に肯定的な言葉を口にして、自らが望む現実を創造しようとする人々は、これまでにも数多く存在した。書店の「自己啓発コーナー」へ行けば、その種の本がずらりと並ぶさまを目にすることになるだろう。
だが、一方で、肯定的な言葉、あるいは肯定的な思考の現実化について、疑問の声も少なくない。これらの手法の実践者の間からも、そのような声が聞かれることがある。それは、言葉にしたことが実現しない人も決して少なくないからだ。
きっと本書の読者の中にも、アファーメーション(願望実現のための肯定的な文言)などに取り組んで失望の結果に終わったことのある人がいるだろう。そういう方は、言霊が現実を創造するという話にも半信半疑になってしまうと思う。
では、どうして一般的なポジティブシンキングやアファーメーションが失敗に終わってしまうことがあるのか。その理由について七沢氏はこう解説する。
「ポジティブシンキングには論理性がありません。そのため、どれほど肯定的な文言であっても唱えれば唱えるほど、それが強迫観念となる人が出てきてしまいます。そのような人の場合、ポジティブシンキングは逆効果となるでしょう。
人は何か行動に移るときにハードルがあるものですが、それは脳が問題の背景にある階層の全体を理解していないために、なかなか動けないということです。
これまでの心理療法もいいところまではきていますが、全体の階層でしっかり言葉にしていないために、どうしても逃げ道ができてしまいます。あえて、逃げ道を作るというやり方もありますが、本当に物事を改善したいなら逃げてはいけません」
つまり、ここでもポイントとなるのは階層性と統合性なのだ。
人が何かを願望するときには、必ずその背景には「不満」「不足」「不調」といったネガティブな問題が隠されているもの。一般的なポジティブシンキングやアファーメーションでは、そのネガティブな要素に触れず、ポジティブな願いにだけ意識と言葉を向けることになるが、それでは人によっては、ネガティブな要素を心の奥に閉じ込めてしまい、融通無碍(むげ)な心の働きをかえって縛り付けてしまう。
さらには、その願望の背景にある問題まで含めた「事の全体像」を脳が理解していないために、いざという好機にあたって機転を利かせ、適切な行動をとることができにくくなる。
七沢氏が述べているのはそういうことであろう。
では、言霊で現実を創造するにはどうすればいいか?
五つの母音が五階層と対応する日本語の五十音に、階層性と統合性が折り込まれていることはすでに説明した通りである。そのため、基本的には日本語で語られた願望は叶(かな)いやすいといっていいだろう。
だが、私たちの多くは、現代の日本語が上代和語から変遷してきた過程への理解を欠き、古層和語圏といわれる豊穣な霊的・知的データベースにアクセスする術(すべ)も知らない。
加えて、近年顕著な日本語の乱れも問題である。乱れた日本語が飛び交う中で、言霊が力を持ちえないのは当然のことであろう。
そこで、そのような時代であるからこそ、祓詞の奏上が大きな意味を持つことになる。
まず唱えてみていただきたいのは、伯家神道の「三種祓(さんしゅのはらい)」「身禊祓(みそぎはらい)」「一二三祓(ひふみのはらい)」だ。
第1章で「身禊祓」について説明したことを覚えておられるだろうか。この祓詞には、『古事記』に説かれた百神のうち八十七番目の八十狂津日神(やそまがつひのかみ)から九十七番目の上筒男命(うわつつをのみこと)の名前が順に並べられており、それらは言葉を整理する神とされる(254ページ参照)。つまり、その神名(しんめい)を口にすることで、言葉の乱れは階層化されて整うのだ。その階層化は同時に祓いでもあった(その具体的な仕組みについては巻末でご案内する「一般社団法人白川学館」で学べるよう準備を進めている)。
また、「身禊祓」の後に奏上される「一二三祓」は、祓い清められた言葉によって新たな創造を行う宣言であると同時に、五十音を授かった感謝の念祷(ねんとう)である。
数が「一(ひ)、二(ふ)、三(み)……」と生じるように、祓いによって創造の源である高天原に回帰した地点から新たな現実を創造する。それが「一二三祓」の真義である。ここでポイントとなるのが、「身禊祓」によって高天原に回帰した後に「一二三祓」を奏上することだ。
つまり、新たな現実を創造するには、いったん「まっさら」にしないといけない。
これはほかの霊的伝統においても同様である。たとえば、インドのヨーガ行者の中には「マウナ」と呼ばれる沈黙の行に励む者がいる。彼らの中には10年、20年と沈黙を貫く行者が存在するが、そのような者がひとたび口を開いて何かを言うと、それはどれほど不可能に見えることであっても実現するという。
何十年も無言を貫いて頭の中にすら言葉が浮かばなくなったとき、言霊は本来の力を取り戻すのである。
これと同じことを、長年の修行を経ることなく誰もが行えるのが伯家神道の祓詞である。そして、祓いとは、自分自身の心身の穢(けが)れを浄化することでもある。
祓詞の奏上は毎日行うことが望ましいと七沢氏は言う。
「人は毎日のように何かを間違う存在ですから、毎日奏上して自らを祓い清めておくといいでしょう」
ただし、前章で触れたように、祓詞を奏上するときに抑揚や旋律をつけてはならない。また、祓詞にはそれなりの力があるため、ところかまわずに唱えると、不要な霊的エネルギーを惹(ひ)きつけてしまうこともある。そのため、奏上の前には火打ち石で身を清め、さらに身の周りに結界(けっかい)を張っておくのが決まりとされる。
自己流で奏上する場合にはどうしてもそのリスクは避けがたい。正しく奏上できない場合には逆効果として、かえって禍(わざわい)を招いてしまうこともあるので、実施の際には細心の注意が要されることになる。