出版社:文芸社 著者:大野靖志 定価:1,680円
●プロローグ― 言霊によって現実を変える具体的な方法を初公開 ― どうして日本語は美しいのか? ― 言霊(ことだま)は「単なる迷信」ではない ― 西洋的価値観は私たちを幸せにしたか ― 日本― 新しい文明のパラダイムを提示しうる国 ― いにしえの叡智を今に伝える言霊学と伯家神道 ― 階層性と統合性によって知識を整理する ― 本書の使命とその方法論
伯家神道の秘儀継承者・七沢賢治が明かす神話と最先端科学の世界
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七沢賢治氏と伯家神道の出会い
では七沢氏はどのようにして、この伯家神道にかかわることとなったのか?その最初の出会いは40年以上前にさかのぼる。
当時、宗教学専攻の学生だった七沢氏は、『小説すめらみこと』(森佐平著)という本を通じて伯家神道の存在を知り、強い興味を持つ。その登場人物には仮名が使われていたが、史実に沿った内容であり、高濱清七郎の孫にあたる中村新子についても書かれていた。
その後、七沢氏が、神社本庁の岡田米夫(よねお)氏が伯家神道の顧問となっていたことを知って連絡をとってみたところ、八日市(現・東近江市)の安見(やすみ)晴子氏が行法を受け継いでいることを教えられる。彼女は若いときに、高濱清七郎の曾孫(ひまご)であり叔母である中村新子の養女となり、神職を務める安見家へ嫁いだ人物だ。
そこで、七沢氏は第1章にも登場した友人の能澤壽彦氏と共に八日市の安見家を訪ねる。そこは小さな神社であり、彼らは安見氏に伯家神道の行法を学びたい旨を伝え、以降、年に一、二度ほど安見家を訪ねてあいさつをすることが続いたという。
安見氏も少しずつ二人の真剣な姿勢を理解するようになったが、脳梗塞(こうそく)を患っていて、自分はもう行法を教えられないので、弟である高濱浩氏のところへ行くように推薦したという。
当時、高濱浩氏は京都の老舗(しにせ)デパートに勤務していたので、七沢氏らは京都に出向き、行法を学びたいと願い出ることになった。結果、高濱氏は二人の真摯な姿勢を理解して、定年退職後に行法を授けることを約束する。
その待ちに待った日は1982年4月18日のこと。高濱浩氏は甲府の七沢氏の自宅を訪れる。あらかじめ近くの産土社(うぶすなしゃ)に参拝し、七沢宅の八畳の和室にしめ縄を張り、神殿を設けた。そして、伯家神道の行法の伝授が開始されたのである。
それから7年間、高濱氏は甲府の七沢邸に毎月来訪し、4、5日間の滞在中に七沢氏らに行を授け、1989年、昭和の最後の日も高濱氏は甲府で迎えることになった。昭和天皇の崩御(ほうぎょ)の知らせに高濱氏は大きな衝撃を受け、それから8月までは毎月甲府に通っていたが、8月の終わりになって体調を崩してしまう。
このとき、七沢氏は京都に招かれて高濱氏の自宅に泊めてもらい、そこで伯家神道に関するさまざまな文書を初めて見せてもらう。そして、高濱氏は七沢氏にこう告げた。「あなたに、三種(さんしゅ)を伝授します」
後に説明するが、三種とは伯家神道の中核にある「十種神宝(とくさのかんだから)御法(のごほう)」の最奥義に位置づけられる位階である。その上に一種と二種が存在しているが、それは天皇だけが知ることのできる秘儀であるため、天皇以外の者が知ることのできる伯家神道の最終段階はまさしくこの「三種」である。
ところが、残念なことに高濱氏の体調が回復することはなく、そのまま翌月の10月5日に帰幽(きゆう)されてしまい、七沢氏はしばらくの間、途方に暮れてしまう。
「高濱先生はまさに人格的な天才でした。振り返れば、私もずいぶんと失礼なことをしたはずですが、そんな非礼などまったく意に介さず、いつもニコニコ笑っている方でした。もちろん人の悪口など絶対に言いません。どのような教育を受ければあのような存在になれるのかと不思議に思うほどでした。静かに笑って、陰で自分がぜんぶ咎(とが)を負っているようなそんな先生だったのです」
七沢氏はそのように当時を述懐する。
さて、高濱氏が他界したために、ほかに三種を伝授できる人物は一人しか残っていない状況となった。滋賀県大津市にある長等神社の新宮幸勝宮司という人物である。
そのとき、宮司はすでに90歳近い高齢であったが、高濱浩氏の妻・享子(きょうこ)氏が浩氏の遺言を実現すべく、新宮氏に伝授を依頼。後に長等神社で七沢氏は「三種」の伝授を受けることになった。
それからほどなくして新宮宮司もこの世を去ったというから、そのタイミングを逃したなら真正の伯家神道はそのまま絶えてしまっただろう。しかし、そうはならなかった。幕末の混乱期に、伯家神道の伝統が途絶えぬよう高濱清七郎に京都を離れるよう指示した孝明天皇のその思いは、高濱家の血脈を通して受け継がれ、七沢氏へと伝えられたのだ。
高濱浩氏は七沢氏にこう言い残したという。
「決して宗教団体は作らぬこと。そして、この甲府の地で100年でも200年でも『おみち』(伯家神道)を守ってください。私は死んでからも、向こうからいつもあなたを助けます」
その遺志を継いだ七沢氏は、毎朝自宅の神殿で祓いを行い、縁のあった人に「ご修行」(伯家の行法)を授けている。また、2010年6月には一般の方々にも門戸を開放するため、「一般社団法人白川学館」を設立した(巻末にご案内掲載)。宮中に秘された神道の精髄(せいずい)は甲府の地においてその命脈を保ち続けているのだ。