出版社:文芸社 著者:大野靖志 定価:1,680円
●プロローグ― 言霊によって現実を変える具体的な方法を初公開 ― どうして日本語は美しいのか? ― 言霊(ことだま)は「単なる迷信」ではない ― 西洋的価値観は私たちを幸せにしたか ― 日本― 新しい文明のパラダイムを提示しうる国 ― いにしえの叡智を今に伝える言霊学と伯家神道 ― 階層性と統合性によって知識を整理する ― 本書の使命とその方法論
伯家神道の秘儀継承者・七沢賢治が明かす神話と最先端科学の世界
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皇室祭祀を司った白川伯王家
七沢賢治氏の研究におけるもう一つの軸である伯家(はっけ)神道について、まずその歴史を簡単にご紹介しておこう。
伯家神道は別名白川(しらかわ)神道と呼ばれ、そのルーツは日本語と同様に1万年以上前にまでさかのぼることができる。ただし、伯家神道として一つの形を成したのは、第六十五代花山(かざん)天皇の皇孫(こうそん)にあたる延信王(のぶさねおう)が万寿2年(1025年)に源姓(花山源氏)を賜(たまわ)って臣籍降下(しんせきこうか)し、その後、宮中祭祀を司る神祇官(じんぎかん)の長である神祇伯(はく)に任ぜられたことに始まる。
神祇官とは皇室・朝廷の祭祀の秘儀(ひぎ)を伝承する役職であり、宮中において神鏡(しんきょう)を奉安(ほうあん)する内侍所(ないしどころ)、および天皇を守護する八神を祀る神祇官八神殿(はっしんでん)に仕え、神拝(しんぱい)の作法などを天皇や皇太子、摂関(せっかん)家などへ伝授するという重大な役目を負っていた。
この神祇官制度の発祥時期は不明だが、飛鳥時代後期にはすでにその記述が見られる。当初は忌部(いんべ)氏や大中臣(おおなかとみ)氏、橘(たちばな)氏など有力な氏族が神祇官の要職を占めていたが、先述の延信王(のぶさねおう)が神祇官に就任してからは、その子孫が代々神祇伯となり、白川伯王家を名乗るようになった。
臣下の身でありながら皇族の尊称である王号を名乗ることが許されたというこの事実が、その地位の高さを物語るだろう。形式上の位階(いかい)はそう高くはなかったが、実質的には行政を司る太政官(だいじょうかん)よりも上位の立場にあったといわれている。
その後、白川伯王家の家系は三分し、神祇伯の職を数年ごとに交代していたが、やがて伯職に就く家系は一つに統一された。
七沢氏は、白川伯王家の家系継承(けいしょう)についてこう説明する。
「白川伯王家は世襲(せしゅう)でしたが、その伯家神道の継承には生来の能力が必要でしたので、後継者が絶えそうなときには養子を迎えて血を絶やさないようにしていました。つまり、白川伯王家とは家系であると同時に、それ自体が一つの役職のようなものであったのです」
日本の神道において絶大な威光を放つ白川伯王家であったが、中世における吉田兼倶(かねとも)という人物の登場がその地位を危うくさせる。もともと吉田氏は卜部(うらべ)氏を名乗る神祇官に仕えた家系であったが、兼倶は密教や道教、陰陽道(おんみょうどう)などの影響を受けた独自の神道を提唱し、同時に朝廷や幕府に取り入って全国の神社や神職(しんしょく)へ位階を授ける権限を獲得。神祇管領(かんれい)長(ちょう)上(じょう)の肩書きを得て白川伯王家に対抗した。
それに応じる形で白川伯王家二十三代当主の雅光王(まさみつおう)は、江戸時代中期に伯家神道の首席教師である「学頭(がくとう)」という位を創設し、このころから伯家神道が一般にも説かれることになる。また、吉田神道と対抗する目的もあり、土御門(つちみかど)神道や垂加(すいか)神道などといった他流とも交流を深めていった。
「伯家神道は別名白川神道とも呼ばれますが、もともと白川伯王家がそう自称していたわけではなく、単に『おみち』と呼ばれていただけでした。いわゆる伯家神道は宮中祭祀としてのみ行われていたので宣教の必要はなく、教義などを記す必要もなかったのです」
七沢氏によると、朝廷への報告書などがいくつか残されているものの、それは教義を記したものというよりは、祭祀の概要などを説明する報告書に近いものだという。
その後、伯王家の秘伝としての伯家神道は一部の神社へ伝わり、また次第に尊王(そんのう)論者の間でも注目されるようになった。1816年には、第二十八代当主の資延王(すけのぶおう)が学則を制定して門人の基準を明示し、伯家神道の教化的基礎が確立。著名な国学者の平田篤胤(あつたね)を伯家の学頭に起用したり、後の明治維新の原動力となった水戸学派と連携したりしながら、伯家神道は時代の激動の渦(うず)へと飲み込まれていく。